特集記事抜粋
 

VOL.15 −特集「橋」−(2003年夏号)
どこかへ行こうと 人は橋を渡る。
ある時は どこかへ帰るために。
誰かに会いに      
誰かと別れて…。
橋には人の想いが懸かっている。

コンテンツ
特集「橋」
Sketch of Yoshino River 第7回 東祖谷山村
この人と吉野川 第10回 徳島県立城東高等学校硬式野球部
Yoshinogawa News 総会開催の報告、吉野川上流親子探検隊の募集ほか
特集「橋」
吉野川はさながら橋の歴史博物館。
先人たちが築いた橋の歴史をそのまま見ることができます。


 吉野川河口に美しいシルエットを描く吉野川橋は、徳島県を代表する景観のひとつです。この吉野川橋は、昭和初期に徳島県内の吉野川に架設された抜水橋の中で、当時の形をとどめる最古のものです。
 日本有数の大河である吉野川には、さまざまな形の近代的な橋が架かり、まるで橋梁技術の歩みを記す博物館の様相です。と同時に、木橋や潜水橋も残り、先人たちの川との関わり、川との戦いの歴史をもたどることができます。
 吉野川に最初の抜水橋が架けられたのは、明治44年、高知県穴内の吉野川橋でした。徳島県内では、昭和2年に三好橋、同3年に穴吹橋、そして吉野川橋と、当時の最新技術を駆使して歴史に残る名橋が架けられました。しかし、莫大な費用と長い年月を要する長大橋がそうそう架けられるわけはなく、人々は渡船や舟橋(舟を横一列に並べて岸から鋼や鎖でつなぎとめ、その上に板を渡したもの)、木橋などを渡して、生活道路として利用していました。
 昭和30〜40年頃には潜水橋が次々と架けられました。戦後の復興期で国家財政が厳しかったため、人々は知恵を絞り、交通の要所に簡易な潜水橋を架けたのです。水面から1〜2mの高さに架設され、増水時には水中に潜り、水が引くと水上に再び姿を表すことからの命名です。かつては20橋近くありましたが、抜水橋へと架け替えが進み、現在は十橋余りが残るのみです。
 吉野川の橋を巡って、橋の歴史を繙いてみましょう。
この人と吉野川 −第10回  徳島県立城東高等学校硬式野球部−
吉野川河川敷で白球を追う球児たち。
月曜日の練習は河川敷の清掃から始まります。


 城東高校硬式野球部の練習場は、吉野川大橋たもとの河川敷グラウンドです。夏の川風、冬の砂嵐など、吉野川の四季を肌で感じながら練習に励んでいます。
 月曜日の練習は河川敷の清掃から始まります。お世話になっているグラウンドに感謝の気持ちを込めて。野口雅史主将(3年)の指示でゴミ袋を手に散らばり、てきぱきとゴミを回収します。創部以来欠かさずやっているので手慣れたものです。
 野球部の創部は平成8年。『伝統のない新設部だから、周囲に認められる活動をしていこう』と始まった毎朝の校門前清掃は創部以来の 伝統 に。アドプト・プログラム吉野川への参加は平成12年10月、学生としては初めての参加でした。「先輩たちから受け継いだものを大事にしていきたい」と語る野口主将。彼らにとって、アドプト参加は日常的な活動の延長で、ごく自然なことだったのです。
YOSHINOGAWA NEWS -総会を開催-
 平成十五年度吉野川交流推進会議総会を五月二六日(月)、徳島市内のホテルクレメント徳島にて開催し、昨年度の事業報告と今年度の事業計画などについて協議いただきました。また、総会終了後には、アドプト・プログラム吉野川に二年を越えて参加・活動いただいている二五団体・企業に、感謝状を贈呈しました。
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